DIVA(1)



いわゆるスラム街にあって、その老婆の部屋は落ち着きと慈愛に満ちており、外の喧噪とは無縁のようだった。
テーブルで紅茶の湯気につつまれながら、は70を半ば過ぎても一人暮らしを貫くステファニーとおだやかな表情で向き合っていた。
 彼女の部屋にところせましとディスプレイされている写真やジャケット、本・雑誌の表紙を飾るあでやかな女性はそこにいる、その人であった。
象牙のような色と質感のきめ細かい肌に、長いまつげに縁取られたヘーゼルの瞳。すっと通った鼻筋に、ふっくらした唇。じっと目をこらしてもまったく非のうちどころのない美しい造形の、女だ。その腰まである栗色の髪は部屋に差し込む夕日につややかに輝いていた。そして彼女は20歳を少し越えたくらいだろうという若さだというのに、驚くくらいの自信に満ちたまっすぐな目を持っている。
「・・・・ステファニー、何度も言うと嫌われてしまうかもしれないけれど・・・・。ここに愛着があるのも、あなたがここの古い顔だというのも分かるわ。でも人の顔ぶれが変わるのは早いのよ。あなたはもう、ここを出ても良いんじゃないかと思うの・・・・。私の家の近くの、もう少し便利で安全なところに、引っ越してきて欲しいと、ずっと私は願っているのだけど。準備は全部、私がするから・・・・。」
はその美しい顔を心配そうに曇らせて老婆に話す。ステファニーと呼ばれる老婆は優しく微笑んだ。この世界中で名声と人気を勝ち取っている、新進の声楽家の。新世紀の女神と呼ばれるクールで冷静な彼女を、世間は氷の女王などという月並みな表現で表す事もある。が、ほどそのような通り名にふさわしくない女はいないと、ステファニーは知っていた。
。あんたの気持ちは嬉しいよ。私も意地を張っているわけじゃない。ただ、今はまだ足腰も元気だし、まだまだここにいたいのさ。確かにここが昔と違ってきてるのは分かるし、でも、小さかった頃のあんたみたいに、あたしを必要としている者もいるってのも、わかるんだよ。まだ、ここを出るわけにはいかない。」
にこやかに言って紅茶を一口飲んだ。もため息をついて、熱い紅茶をすする。
「あたしが、この年までこうやって無事にやってこれてるのはあんたも知ってるだろう?あたしはこれでも用心深いし、慎重だし、無理はしない。本当に必要になったら、ちゃんとあんたを頼るよ。」
茶目っ気たっぷりに、にウィンクをしてみせる。
「それより、あんただよ。こっちこそ何度も言ってるけど、こんなにしょっちゅうあたしのところに来ない方がいい。あんたは怖いくらいにどんどん有名になってるじゃないか。つまらない事を勘ぐられたら面倒だろ?」
今度はがふっと笑う番だった。
「ばかね。私がこの町で育った事なんて別に隠してもいないし、その事でとやかく言われたとしても、そんな事はなんでもないわ。分かるでしょう?私はそんなに安くないのよ。」
ステファニーはくっくっと笑う。
「確かにね。そういう心意気でもなければ、あんなに浮き名ばかり流すこともないでしょうよ。」
「いやね、ステファニーまでそんな言い方。」
「からかってる訳じゃないよ。頼もしいと思ってるだけさ。」
「からかってるようにしか聞こえないわ。私、別に楽しんでやっているわけじゃないのよ。」
すこし拗ねたように、は自らの男性関係の報道について弁明をする。確かに彼女の男性関係の報道は派手だ。それは、が単に色を好むという事の結果とは言い難い。は自分が好ましいと思った男性、または相手から好意を示された男性とコミュニケーションを持ったりする事には積極的ではある。が、やはり自分が思う人とは違う、と感じた時の決断も早い。
彼女は自分で自分自身がまだ成熟していないのかもしれない、と時には思う。なぜなら、どんな男でも、自分自身以上に好きで興味を持てる、という事はほとんどないから。アーティスティックな意味で尊敬できる立場の人から、恋をうち明けられることも多くある。そういう男とも何度もつきあってみたことはあるが、尊敬は尊敬、自身がそのような相手に恋いこがれるという事にはなかなかならないのだ。
若く美貌の声楽家に恋をする男は当然ながら多いし、彼女から興味を示されてむげにする者などいない。その結果、は多くの浮き名を流されてしまうのだ。
が、ステファニーの言うように、その浮き名は彼女の名を落とすどころかますます輝かせる事にしかならなかった。そういう光が、彼女からは出ている。
「ま、あんたの事は心配しないようにするよ。だから、あんたも、私の事は心配しないで良いのさ。まだ対等の友達としてやっていけるよ。」
は切ない思いで彼女を見た。
幼い頃、この荒っぽい町で育った。まだ少女の頃に父親に死なれた。その彼女を守ってくれ、そして声楽家になるまでの支えをしてくれたのはこの町全体の母親といえるステファニーだった。その彼女から「対等の友達」と言われ、嬉しいような切ないような、そんな気持ちを抱いた。
ともかく、多忙なの生活の中で、こうしてステファニーと紅茶を飲むのはオアシスのような時間だった。
「わかったわ。じゃあ、また遊びにくるわね。元気で、ステファニー。」
ジャケットを羽織ってサングラスをし、はステファニーの家を出た。駅の近くの馴染みの銀行に車を置かせてもらっている。そこまで歩き始めた。
ふと町を振り返る。ステファニーに言った言葉を心で繰り返した。この町の人の顔ぶれは入れ替わりが激しい。その通りだ。
彼女がこの町を出たばかりのころは、まだまだいつでも帰ろうという気持ちにさせられた。荒っぽいティーンの若者も、みな顔見知りだった。でも今は知らない顔がほとんどだ。彼女でさえ、時に違和感を感じるような、そんな雰囲気になってきた。少し寂しい気もした。
そんな事を考えながら歩いていると、背中に衝撃を感じる。前につんのめりそうになった彼女の腕からバッグがもぎとられた。3人の若者が笑いながら走っていく。やられた!は昔を懐かしんで油断していた自分にカッとなる。
「ちょっと、あんたたち・・・・!誰か!」
無駄とは分かっていても叫んで走り出す。西日の太陽にむかって、逆光で少年達も見えにくい。最低だ、と思いながら、あきらめて速度をおとしかけた頃。少年たちの罵声が聞こえた。倒れ込む音。
男が一人、なにやら少年達に言っている。
少年達は汚い言葉を大声でわめいて走っていった。
男が、近づいてきた。は自分の素顔を見られるのも恐れず、サングラスを外して、その男を見ようとする。まぶしい夕日の中、近くまで来てやっとその男の姿を認識する事ができた。
細身の黒っぽいスーツにそろいの色のソフト帽。あごひげにつつまれた浅黒い肌の顔はアジア系のようだったが、帽子の鍔でその目は見えなかった。たばこをくわえたまま、バッグをに差し出す。
「若いねえちゃんの来るところじゃないぜ。それでカジュアルななりのつもりかもしれねえが、金に餓えた奴はごまかせねえよ。」
 の完璧なプロポーションをつつむ、ダナキャランのジーンズをさして、男は口のはしをちょいと上げる。は不本意ながら、二つの点が気に障った。一点は、自分がよそ者のように扱われること。そして二点目は、こうやって素顔をさらしているのに、自分を「ねえちゃん」呼ばわり。ここ2年ほどはこの上なくマスコミへの露出も多い自分を知らないというのも若干気に障るのが正直なところだし、それを差し引いても、指摘のとおり決して品の悪い格好をしている訳でもないのに「ねえちゃん」呼ばわりとは。
そう思いながらも同時に、即座には彼への興味を感じて仕方がなかった。 
この、結果としては自分を助けてくれたやけにクールな男に。
「・・・・・・そうね、私が油断していた事は認めるわ。でも、ここは私の育ったところなの。私が来ようと来まいと、自由だと思うわ。」
言っては男からバッグを受け取る。男は帽子のつばをあげて、ちょっと驚いた顔で改めてを見た。
「そうか、そりゃ失礼を言ったな。」
思いがけず素直な反応にも少し驚く。
「でも、ともかく、ありがとう。大事なものも入っていたし、助かったわ。」
「馴染みの町なのかもしんねえけど、気を付けるこったな。こういう町では昔なじみなんて、すぐいなくなるもんさ。」
ちょうどさっきが考えていた事と同じような事を、男は口走った。この男は、もしかしたらこの町で自分と同じような思いを抱いていたのだろうか。
彼への興味が加速した。
「そうね、本当にそう思うわ。あなたに・・・・・・・・お礼がしたいわ。もし時間があるのなら、食事をごちそうしたいのだけれど。」
はまっすぐに彼を見ながら言う。こういう事を言うのにまったく躊躇しないのが、彼女の特徴だった。
多くの男がそうするように、彼は驚いた顔で反応する。が、次の反応は、彼女が出会った多くの男とは異なった。
「せっかくだが俺は忙しいし、女と飯を食って旨いと感じる事の少ないたちなんでね。別に礼はいらねえよ。」
彼のその反応に、は驚きを禁じ得なかった。は自分の女性としての魅力も十分知っていたし、それだけではなく、彼女が日々真摯に磨き続けている内面の誠実さ・真剣さが自分に輝きをもたらしている事も知っていた。例え、声楽家としての自分を彼が知らないにしても、この自分に一片の興味も示さないとはどういう事だろう。驚くとともに、この次にどう対処して良いのか、分からなくなってしまう。いままでに、こんな事はなかったのだから。
「・・・・・・・じゃあ、名前だけでも教えてくれない?助けてくれた人の名前も知らないんじゃ、すっきりしないわ。」
男はくっと笑った。
「あんた、気の強い女だな。他人に借りを作るのがそんなに気に入らないのかい?安心しな、俺はそんなこと気にする方じゃないんでね。それに俺の名前を知ったからといって、何も良い事はねえよ。気を付けて帰んな。」
男はそのままジャケットの裾を翻してに背を向けた。
ボタンを外したジャケット、そのシルエット。男が銃を持っていると、にはわかった。本能的に彼からは危険な匂いを感じた。が、なぜだか彼への興味は強まる一方だ。
男の言いぐさにそれ以上の術はなく、は彼を見送り、車まで歩いた。銀行の支店長に挨拶をして自分の車に乗り込む。ふうっと息をつく。
あの男。
何者だろう。今まであの町で見たことなどなかった。地味なようだけど、あんな男がいたら絶対に目立つはずだ。
自分が他人に興味を持つときの、あの感じ。普段のそれとは比べものにならない位の思いがこみあがるのが分かる。
どうしてだろう。あんなチンピラみたいな男。しかも危険だ。そして、自分にまったく興味を示さず、無視同然の扱いをした男。
やり場のない思いを胸に抱きながら、は自宅のマンションに車を走らせた。

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